田の神さぁ
TANOKAMI



田の神とは何か?

 田の神信仰は全国的な民俗行事として農村に浸透してい ます。伝承でんしょうよるとこの田の神は冬は山の神となり、春は 里におりて田の神となって田んぼを守り、農作物の 豊作をもたらしてくれると信じられています。ただし、 この山の神は、田の神となりたまう神で、きこりや猟師りょうし のための山の神(山を守る神=女性)ではないというこ とです。
 一説によりますと、田の神の実体、とりわけその本来の姿は種籾たねもみであり、秋に収穫された稲が翌年春に生産の 為の稲籾いなもみになることから、稲の神(稲魂いなたま)が田の神の本 質的性格であるとされています。また、もみ・米・餅など は永遠の生命として継承けいしょうされたものであり、それ自身が 田の神であり、それが何らかの影響を受け、稲の外にあ って稲の生育を守る田の神へ展開していったと考えられ ています。


田の神信仰の起源

 自然石や石像を田の神として田んぼに立てているのは、一つの石神信仰です。 それらの石の多くが、性器をかたどっているのは、古代からの性器信仰の表れ と見られています。えびの市西川北の自然石は、男性のシンボルそのものをかたどっているといわれています。
 大同2年(807年)に書かれた 『古語拾遺こごしゅうい』 の『御歳神みとしがみ』の中に、 「田んぼに発生したイナゴを駆除するために、男茎おわせ型の田の神を造って田んぼの水口に立て た」という記事があります。
 田の神の中でも、とりわけ多くの「農民型」田の神像の後ろ姿は、男根(陽物)をかたどったものが多いです。田の神は増殖の神であ り、手に持つメシゲとスリコギは男性のシンボル、わんは女性のシンボルを表すといわれてます。
 本来、田の神は男性ですが、石像の中には少数だが女性像もあり、夫婦像もあります。


田の神信仰の形態

 一般には田の神と呼ぶが、東北地方では農神のうがみ 、山梨・長野では作神さくがみ、近畿では作り神、兵庫から山陰の一部にかけては亥の神、 瀬戸内海地方では地神ちじんと呼びます。
 南九州地方(薩摩・大隅・日向の南部)では集落ごとにメシゲやスリコギを持つ田の神の石像を作って田のそばにまつっています。 地方によっては、恵比須・大黒・カカシなどを田の神としている所もあります。さらに中国 ・四国地方などでは、木の枝(サンバイ様)を田の水口やあぜに立てて、田の神としています。


田の神の性格

 田の神は聖的な神仏ではなく、庶民的しょみんてきな神仏という性格です。神無月になるとすべての神が出雲に集まるが、 田の神だけは土地に残り、人々を見守る神様であるという、言い伝えがあります。
 また、田の神は汚しても転がしても決してたたらない優しい神であり、盗まれて他所へ連れて行かれても不平も言わず、 行った先々で田んぼを守ってくれています。
 「デフッジョ(大黒さま)は人にかくれてん働け、タノカンは、ヨクエ(憩え)と言やったげな」という話が残っています。


田の神石像の形態

形態は一緒でも、研究者によって型の名称が異なります。
  宮崎   鹿児島
「神官型」-「神像型」
「地蔵型」-「仏像型」
「農民型」-「田の神舞型」
  田の神像の発生は地蔵型(仏像型)が最も古く、これに神官型(神像型)が続いたとされています。
田の神像の変遷
・地蔵型(仏像型)→僧型→旅僧型
・神官型(神像型)→神職型→田の舞神職型
・農民型(田の神舞型)←田の神舞←神楽

神官型(神像型)

・発祥の地は小林市から旧高崎町にかけてといわれています。
・宮崎県内では約半数がこの型(195/424体)です。
・18世紀田の神は2/3がこの型(35/47体)です。
・古い神官型(神像型)田の神が特に小林市から旧高崎町にかけて多数分布していることは、霧島山麓のこの地は霧島信仰を中心にして 神官型(神像型)田の神が成立したものと思われます。霧島信仰とは霊山が尊崇の対象で、噴火というお山に対する恐怖と噴火しないように祈る土俗信仰です。

地蔵型(仏像型)

・発祥の地は薩摩地方といわれます。
・両県を通じて最古の田の神は、薩摩郡さつま町紫尾にあります。

農民型(田の神舞型)

・農民型の誕生は鹿児島県で享保3年(1718)の姶良市蒲生町漆のシキを被りメシゲを持つ田の神が一番古いようです。鹿児島県はこの農民型の田の神が多いです。
・鹿児島県に近い都城やえびのに農民型が多くなるのは、鹿児島型であるという証左です。


田の神石像の作成年代
鹿児島県で最古の田の神

宝永2年(1705)作の薩摩郡さつま町紫尾(旧鶴田町)の地蔵型田の神。

宮崎県で最古の田の神

享保5年(1720)作の小林市真方の神官型の田の神。

宮崎県で2番目に古い田の神

享保7年(1722)作の小林市東方中間の陰陽石の地蔵型田の神。


田の神石像の分布

 宮崎県では、田の神信仰は全県下にあるが、田の神として石の像を祀るのは旧島津藩であった西諸・北諸・東諸地方だけです。ただ少々の例外があって、旧延岡藩領であった 宮崎市の大塚町や生目地区、国富町の竹田・一丁田・嵐田の各地区にも田の神石像をみることができます。さらに旧清武町(2体)、日南市(1体)にもあることから、島津領 から他藩へ浸透して、石像が新田開発の記念碑として受け取られている傾向があります。
 宮崎・鹿児島両県外では熊本県人吉市に石像(大正時代製作)があり、水俣市にも石像または自然石があります(アンケート調査により)。
 ところで、田の神像の別の形と考えられるものとして、西米良村では大きな岩や山そのものが田の神信仰の対象になっており、田の中に大きな自然石があって、これを田の神石 といい、田植えの時などに苗や供え物をして祀られています。
 他方、田の神様をお迎えする田の勧請の風習が宮崎県旧西郷村田代地方に残っており、立春から数えて八十八夜の5月2日頃、苗代の種を蒔き終えると、川原から両手に乗る大き さの石を1個持ってきて、これを田の神様として畦に置き、餅かシトギを供えて拝みます。この田の神石はそのまま置いて、稲刈りをするまでずっと稲を守ってもらうといいます。


島津藩と田の神講
島津藩が農民に要求した禁止項目の中に、
 ・市中での多数の寄り合い
 ・平日村で打ち寄り酒を呑む事
その他多くの禁止事項があります。
 薩摩藩の百姓の生活は苦しく、年貢は九割前後、公役(講普請みぞぶしん等の公の夫役)は月に10日前後であったから、農業は女子供の手にゆだねられ、 その収穫の結果はやっと一カ月ぐらいの飯料を残すだけというひどい収穫ぶりでした。
 楽しみのない当時の農民は何かと名目をつけて集まって呑む方法を考えました。その中で一番良い方法は、増産祈願のための田の神祭りを行うというのが最高だったわけです。 米は藩の財政を支える主要な農産物でありましたから、農民に自発的に田の神石像を造らせ、タノカンコ(田の神講)を盛んにさせ、毎年正月をもって、「したい放題な日」(その日に限り、 飲食、放歌、乱舞を問わずいかなることも咎めず)を設けて農民の生産意欲をかきたてました。
 島津藩は封建制度が強く身分の格差がはなはだしいものでしたが、米の豊作を願う事においては一致した念願でありましたから、田の神の祭りの日は無礼講で飲み食いをし、 たがいに豊作を祝い、かつ願ったのです。

えびの市の田の神像の年代

江戸時代 

享保 9年(1724年) 神官型 中島地区
享保10年(1725年) 神官型 中内竪地区梅木
享保10年(1725年) 地蔵型 飯野町地区
安永 6年(1777年) 農民型 前田地区二日市
天明 6年(1786年) 神官型 水流地区菅原神社
文政 2年(1819年) 神官型 岡元地区
文政13年(1830年) 農民型 歴史民俗資料館
天保10年(1839年) 農民型 堀浦地区
天保11年(1840年) 農民型 杉水流地区佐山
弘化 4年(1847年) 農民型 東原田地区八幡墓地
享保の作風        神官型 中原田地区上園墓地
江戸中期の作風      農民型 上上江地区田ノ上
江戸中期の作風      地蔵型 田代地区
江戸末期の作風      農民型 下大河地区小牧
江戸末期の作風      農民型 東原田地区八幡墓地
江戸末期の作風      農民型 飯野麓地区佐院
江戸末期の作風      農民型 飯野麓地区御内馬場

明治時代 

明治 元年(1868年) 農民型 末永地区
明治20年(1887年) 農民型 上島内地区
明治43年(1910年) 農民型 飯野麓地区成就軒墓地

大正時代 

大正 2年(1913年) 農民型 大明司地区
大正 4年(1915年) 農民型 白鳥地区
大正 4年(1915年) 農民型 西郷地区西郷公民館
大正 5年(1916年) 農民型 溝之口地区
大正 8年(1919年) 農民型 下大河平地区
大正15年(1926年) 地蔵型 飯野麓地区佐院
大正15年(1926年) 農民型 西川北地区宮馬場・城山

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