えびの市歴史民俗資料館

大河平氏の歴史

01菊池氏から大河平氏へ

 大河平氏は南北朝動乱の世に、南朝宮方の主将として奮戦した菊池氏の支族である。菊池氏は初代を則隆といい、則隆から六代目の隆直の時代になると、隆直は安徳天皇を護衛して壇ノ浦の合戦で敗れた。文治元年(1185年)3月24日、安徳天皇は入水し、ここに平家は滅亡したのである。
 この戦いに菊池隆直の嫡子太郎隆長と三男の祇川三郎秀直以下一門数人が安徳天皇に殉死したが、父隆直は軍略上のこともあって菊池の領地に帰っていた。
 ところが、源義経と豊後の緒方惟能これよしが策謀して菊池隆直を攻撃し、隆直は敗れ城中で自殺した。隆直が敗死した菊池家においては、二男の菊池二郎隆定が菊池氏七代目を継ぎ後鳥羽院武者所むしゃどころに任ぜられた。また、四男真方は合志こうし四郎直方と称していた。
 次が大河平の始祖となる五男の隆俊である・隆俊は木下・溝口・春口・八重尾・渡辺・内山・川野・松田・斉藤・黒江などの郎党10家を率い、菊池から肥後八代に移り八代の領主となって姓を八代五郎隆俊と名のったのである。
 菊池姓を八代姓に改め「八代五郎隆俊」と名乗り、八代を統合するようになって以来、八代氏は勢力を強めていた。

(註)隆俊を菊池氏六代隆直の三男と書いてある史書もあるが、三男でなく五男であるから五郎隆俊と名乗るのである。この内容を系図で示すと次のとおりになっている。

 初代隆俊から6代目の隆氏は菊池氏本家と提携し、南朝宮方の将として各地に転戦しながら、やがて、征西将軍懐良かねよし親王を八代に奉迎して勤王の誠をささげ、その隆氏から四代目に当たる隆慶は菊池武朝(17代)と共に南朝宮方の陣頭に立って戦い、戦功によって三位に叙せられた。
 このようにして、菊池氏の支族である八代氏は歴代南朝に忠勤していたのであったが、隆慶から五代に当たる隆屋の時代になると、大友氏との戦いに敗れて、家臣66家を率いて飯野郷大河平村に移り、飯野城主北原氏を頼り北原氏の家臣となった。
 やがて、隆屋は永禄5年(1562年)栗野城において島津義弘に拝謁し、主従を誓約してから義弘は隆屋に大河平の地を本領として与えた。そこで隆屋は今までの八代姓を大河平姓に改め大河平隆屋と名乗り、北辺国境整備の任務を担当したのである。

(註)永禄2年(1559年)に隆屋が栗野城において島津義弘に拝謁したと記述した史書もあるが、永禄2年(1559年)は北原兼孝・北原兼守の世代であって、北原氏の全盛時代で栗野も北原氏の領土であった。横川・栗野が島津領になったのが永禄5年(1562年)であるから永禄2年(1559年)に義弘が栗野城に居るはずがない。永禄2年(1559年)説は誤説であろう。

02今城の戦い

 大河平の領主となった隆屋は長男隆充、隆充の長男隆次と三代続いて大河平城を守護してきたが、隆次の時代に伊東義祐が飯野に出兵し大河平城を襲撃した。 幼弱な隆次が伊東軍を撃退した勲功くんこうを義弘が賞賛して、加久藤城の鍋(今の永山区)・灰塚・榎田の三村を隆次に与えた。
 その後、大河平城と相対して新城を築かせ、城兵300人を常駐させ伊東氏に備えた。そこで、この新城を「今城」と名称し隆次が守将として居城した。
 ところが、飯野城主北原兼親と今城主大河平隆次との関係が不和となり、北原兼親が島津義弘に次の事柄を具申した。 「飯野城と今城は遠方でなく近い。今城に敵が侵攻して来ても直ちに飯野城から援兵を出して救助できる。したがって、今城に300の守兵を置く必要がない。経費節約の意味からも守兵を撤兵すべきである。」 この意見を聞いた義弘も一応納得して今城の守兵を撤収したのである。
 今城の守兵撤収の報を聞いた伊東義祐は好機至れりと躍起し、永禄7年(1564年)5月、今城を襲撃した。今城は城主隆次15歳、一族郎党激しく反撃したが多勢に無勢で敗れ、城主大河平隆次、叔父隆堅をはじめ一族郎党並びに木浦木の八重尾一族など130余人が枕を並べて全員戦死し、城は陥落して妻子ことごとく捕らわれ、今城はついに廃墟と化した。 この今城合戦で大河平氏一族郎党が滅亡したのである。隆次の姉が球磨の士皆越六郎左衛門に嫁いでいおり、皆越みなごえの妻女は我が実家の大河平家一族が敗死したことを嘆き、大河平家の再興を常に念じていた。ところが、永禄11年(1568年)8月、伊東義祐の密使が皆越みなごえ宅に宿泊して伊東氏と相良氏が共謀して飯野城を挟撃する、その手始めに大明司塁を奪取するといった作戦を密語していた。この大事な密語を盗聴した皆越の妻女は、我が夫にも秘めて腹心の八重尾岩見を使者に飯野城の義弘に密語の内容を告げた。 義弘は緊急に中野越前守・伊尻神力坊らに大明司塁を守らせた。やがて、相良軍は伊東氏との密約によって高野原まで兵を進めたが、旗幟きしが立ち並ぶ大明司塁を眼下に見て、守備の固いことを察知した相良軍は人吉城に引き揚げ、この挟撃作戦は消滅したのである。
 伊東氏と相良氏が共謀した作戦を事前に報告した皆越みなごえ氏の妻女に対し、義弘は深く感銘し遠矢良堅を使者に皆越みなごえ宅に伺わせ、妻女の功を賞賛して「今義弘に隋身ずいじんするなら大河平の地を与え隆次の跡を継がせる」と伝えた。そこで、皆越みなごえ氏も意を決し島津氏に臣従を誓約した。義弘は遠矢・橋口・田実などの家臣に命じ、護衛の士60人を率いて皆越みなごえ夫婦を川原口まで出迎え無事飯野に入らせた。そして、義弘は皆越みなごえ六郎左衛門に大河平を本領として与え、隆次の後継者となって氏名を大河平左近将隆俊と改め、敗滅した大河平家の再興に奮励ふんれいして基盤を整え、それ以来歴代を経て大河平家は今に家名と史跡を残し伝えている。

03大河平事件

 大河平事件は西南の役で薩軍の敗戦で起こった不幸なできごとである。薩軍は、田原坂以降敗戦に次ぐ敗戦で、後退を余儀なくされ勢力圏はだんだんせばめられた。兵士も、官軍に投降する者、逃亡離散して行方知れずになる者などあり、その数はだんだん減っていった。 大河平事件はこのような敗戦の過程に起こった事件であり、敗戦のいらだち、命令主旨の不徹底による誤解、人間不信により、主従、親族どうしで殺し合い、老人婦女子までその渦中にまき込まれ、あげくの果て、友軍であるべき薩軍が「大河平の者は皆殺し」と、大河平を襲撃し、婦女子も球磨方面まで逃げ、つかまった者はみさかいもなく惨殺されたという、世にも悲しく、そして恐ろしい事件である。
 官軍は大軍を率いて肥後国球磨にあり、薩軍は本営を小林に置き、川内川を挟んで対峙していた。大河平はその中間にあり、重要な位置にあった。官軍がこの地に進撃して宿営するおそれがあり、ここに官軍が陣取れば薩軍に不利になるので、薩軍の本営隊長河野主一郎は、明治10年(1877年)6月14日、旧領主の大河平隆芳の長男、大河平鷹丸に大河平全村を焼くように命じた。 当時鷹丸は負傷して大河平邸で妻子と共に療養していたが、小林本営からの命令に従い数人を引き連れ、まず大河平家別邸を焼き、馬場松山の北側から西に向かい、更に坂上から南側に移り東に進み、元屋敷・平木場まで60余戸あまべの人家を全焼させた。 時は明治10年(1877年)旧5月4日(6月14日)戌亥いぬいの刻(午前8時から10時頃の間)であり、残された者は老人婦女子と傷ついて帰っている者だけで、5月5日の「まき(ちまき)」作りの最中であった。その悲惨な光景は目も当てられなかったという。 鷹丸の一行は、平木場を焼き終わり、鍋倉を焼くため才谷まで行ったが、今夜は遅くなったので明晩にしようと、才谷を引き帰すところであった。
 飯野越えでの戦闘で薩軍は敗れた。大河平に帰りついた直後、この惨状を目撃した川野通貫・清藤泰助は「一言の挨拶もなく大河平を灰燼かいじんに帰すとは、はなはだ不都合である。その理由を問いただせ。」と一行の後を追った。 清藤泰助は、留守中の火災であったので、一物も取出すことはできず、腰のものも焼けてしまった。そこで一行を追いかける途中、田中正之助の家から一刀を拝借せんと立ち寄った。田中正之助の家も灰燼かいじんに帰した。正之助は立つこともできない重病人で炭焼小屋に布団に寝ていたので、正之助の一刀を借りて追いかけた。 才谷の陣の岡で鷹丸一行に遭遇した清藤泰助は一人の従者を斬り、川野通貫は鷹丸に一刀あびせたが、松の枝に妨げられ右腕に斬りつけたのみで、目的を達することはできなかった。鷹丸は従者と大丸東に避難し、従者の一人は鍋倉の親類の家に逃れた。 6月14日の夜中、鷹丸は戦火の難をさけるため、天つつみの渓谷(注:現在大河平共有林)の岩場に建てた小屋で、妻子7人・従妹一人・従者2人・計10人、戦々恐々と一夜を明かした。
 明けて6月15日(旧5月5日)朝早く、川野通貫、清藤康助ら十数人は、鷹丸の居る天つつみの渓谷に行き、小屋を取り囲んだ。 鷹丸の妻歌(25才)は、何かしら胸騒ぎを覚え、不安に襲われながら小屋の外に出てみると、十数人が手に凶器を携えていた。それを夫に知らせようと背を向けると川野通貫が不意に白刃を振って歌を斬った。 川野通貫は更に進んで鷹丸に斬りかかり、互いに激しく刀を打ち合わせて戦い、2,3合斬り合った。既に負傷している鷹丸に、川野通貫ら数人が一斉に斬りかかった。鷹丸(31才)の生涯は大河平山中で終わったのである。
 歌が抱いていた生後数か月の女児は、母の死も知らず、母のふところに乳を求めて泣いているのを、無惨にもなたでおさな子の首を斬って落とした。
 長女(11才)は、3才の男児を背負っていたが、二人一緒に刃をもって串刺しにされた。更に5才のが逃げようとするのを捕らえ、刀をもってその喉をつらぬき、一緒に居た従者沼田清之丞(注:墓には旧5月5日当処に於いて戦死とある)と某(氏名不詳)の二人も、多勢に無勢斬り殺されてしまった。
 虐殺をまぬがれたのは、鷹丸の従妹セツ(20才)と二女の英(8才)三女トキ(7才)の三人で、せつは用事で外に出ており、英とトキは小屋の上の岩場で遊んでいたが、凶器を持った十数人の人が押しかけ、母が斬られたのを見て、危難きなんの及ぶことを恐れ、そこから逃げ出した。
 英とトキは山中を逃げていたが、英はトキをもと奉公人の中村フデと一緒に逃げるように言い聞かせ、一人無我夢中で山中をさまよい歩いた。偶然先に逃れたセツに会い、それより二人で人目を避けながら歩き続けた。 日も暮れてから小林の町に着き悲嘆に暮れているのを同町の助右衛門に救われ、その後、薩軍により鹿児島の大河平隆芳の元に送られた。 妹トキは英と別れ山野を走り逃れていたが、間もなく捕らわれ、まさに刃にかかろうとするとき、薩軍が来て殺されることなく中村フデと一緒に逃げた。その後、姉の英と同様薩軍により鹿児島に送られた。 なお、先に鍋倉の親類の家に逃れた鷹丸の従者も襲われる直前、裏口から逃れ、種子田・小林を経て霧島の東回りをして鹿児島に至り、鷹丸の父隆芳にその実情を連絡した。
 鷹丸惨殺のことを知らされた大河平隆芳は、直ちに親族の者や、家僕をつれて大河平に向かった。
 隆芳の一行は、大河平に着くと、早速天つつみの渓谷へ向かった。大河平家に於いて書かれた『大河平山林事件』の中に有り様が記されているが、その惨状は見るにしのびないものがあったという。 その後、隆芳は川野通貫、清藤泰助等の凶徒を探したが、すでに逃亡してその行方はわからなかった。 大河平を後に小林の薩軍本営に行った大河平隆芳は、「川野通貫、清藤泰助等十数人の凶徒が、薩軍の命令で大河平の人家を焼いた鷹丸を殺した。それから凶徒十数人は薩軍の復讐をおそれて、球磨郡の官軍の本営に行き官軍に投降した」と隊長河野主一郎に告げた。 川野通貫等が官軍に投降したことは『征西戦記稿』に記事があり、その他記録、文書等により証明されるように、鷹丸を斬った後全員球磨郡に逃げ込んだことは確実である。
 大河平隆芳に報告を受けた薩軍の本営は、「大河平の者は主殺し、しかも官軍に内通した、よって皆殺しせよ」と、厳命した。 鷹丸放火の時も各方面に逃げていたが、川野、清藤等が鷹丸を斬った後、大河平の者は皆殺しとのこととなったため、大河平の老人婦女はそれぞれ川原口を通り、皆越みなごえを通って官軍の本営坪屋村に逃げ込んだ。官軍の所に逃げ込むことを恐れた人たちは更に球磨郡の大畑方面まで逃げている。ちょうど田植え時期であり、それぞれ農家に雇われて田植え、田の草取りなど手伝いをし、9月頃まで球磨郡で生活したという。 このように薩軍が襲い来ることを知った大河平の人たちは、大部分は逃げたのであるが、村岡十郎左衛門、渡辺七郎兵衛の二人は「子どもたちは薩軍に投じ、各地に転戦しつつある。それなのに、なぜ官軍に内通するはずがあるか」と事件の真相を告げる為に小林の薩軍の本営に行ったが、大河平の者と聞いただけで斬られている。 そのほかにも事情を知らず、逃げないでつかまった者、逃げ遅れてつかまった者が多数おり、小林または高城、宮崎方面までつれて行かれて斬られた者が大勢いるという。
 このように大河平においては、明治10年(1877年)6月14日以来、斬った斬られたの血なまぐさい事件を繰り返しているうちに薩軍は、次々にその陣をせばめられていった。そして、明治10年(1877年)9月24日西郷隆盛の死により戦乱はおさまった。 戦乱がおわった後、大河平隆芳は鷹丸殺害の徒を告訴し、逃亡した川野通貫を除くほかの人々は間もなく逮捕され、明治12年(1879年)鹿児島裁判所において懲役1年の刑に処せられたが、隆芳は不服として上告した。
 大河平家では、川野通貫、清藤泰助の捜索に狂奔し、川野通貫は児湯郡高鍋の山中で見つかり明治16年(1883年)9月21日死刑となった。清藤泰助は脱監後逃げまわっていたが22年後刑務所に護送され監獄内で病死した。なお、薩軍に殺された人々に対しては、葬祭費が下賜かしされている。
 西南の役、大河平事件は終わった。しかし大河平の人々の精神的な苦痛、肉体的な傷、経済破綻など生活の苦しみは、その後何年も続き終わることがなかった。

※ 参考文献、引用・『えびの市史 上巻』1994年5月/発行 えびの市郷土史編さん委員会/編
・『物語り 大河平史』1997年8月/発行 橋口善昌・高木愛壽/編

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