えびの市

 えびの市は、宮崎県の最西端に位置し、およそ東経130度42分から130度59分、北緯31度55分49秒から32度7分49秒の間に位置し、 南北約22km、東西約26kmである。南から北へ向かってだんだん広くなり、扇の形をしている。  鉄道は、宮崎県で最初に開通した肥薩線と吉都線が走り、国道は221号線、268号線、447号線が走っている。高速自動車道は、九州自動車道に加え、 宮崎自動車道が走り、えびのJCを構成している。また、古くから交通の要衝ようしょとなっており、 『延喜式えんぎしき*1』の駅路にも【真斫ませき】の駅名が見いだされる。
 えびの市は、北に九州山地の尾根を境にして熊本県と接し、南は霧島山系の尾根を境に鹿児島県に続く。 東は、川内川と大淀川との分水嶺で小林市と接し、川内川の流れとともに湧水町へと続いている。川内川は、宮崎県で唯一西へ流れる川である。
 熊本県とは人吉市・錦町・上村に、鹿児島県とは伊佐市・湧水町・霧島市に、宮崎県とは小林市に隣接している。
 現在の市域は、昭和41年11月3日に飯野町・加久藤町・真幸町が合併したものである。また、昭和45年12月3日に市制を施行し『えびの市』となった。  明治22年(1889)5月町村制施行以来、大字名となっているのは藩政時代の村名ををそのまま使用している。
※1.『延喜式』・・・に記載されている日向十六駅の一つ真斫駅。 延喜式は平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。

飯野いいの

 伝承によれば昔神武天皇がクルソン岩を見物されたとき、付近に五穀の種子をいて次の和歌を詠まれた。
  『風吹いて三十三天は騒ぐとも 植える種間は四方に騒がん』
この天皇がかれた稲が大いに繫茂はんもしたので、この地を飯野と呼ぶに至った。
 また一説には、天保年間(1830~1844)、カヤに似た陸稲が発見された。霧島山中に野生の稲があったことは徳川時代の記録に見えており、 こうした野生の稲が、特に飯野地方に多かったため、いつとはなしに稲の野、つまり飯野と呼ぶようになったものであろうと言われている。 ちなみに、南北朝期から地名としてあらわれる。
※飯野町郷土誌より

加久藤かくとう

 加久藤は往古徳満おうことくみつといい、永禄7年(1564)、島津義弘が加世田から入部、加久藤小田村の 久藤村といっていた、北原氏の属城を修築して、『加』の字を加えて加久藤城と名を改めて夫人広瀬氏を加久藤城に置き、 老臣川上三河守忠智にこれを守らせ、自らは飯野城を修理して居城とした。加久藤の地名はこの時から称するようになったといわれる。
※加久藤町郷土誌より

真幸マサキ

 真幸なる語源は「真狭ませき」なる土地の意とされている。、加久藤盆地の地形から名付けられたともいわれる。 当地方は地形的に南は霧島山脈と北は九州山脈の連山に挟まれた谷間を川内川が流れて、その流域が細長く狭い平地で盆地を形づくっている。 したがって、真に狭い土地で、真狭の国と呼ばれたらしい。また、真斫ませき駅の真斫や 馬関田の馬関は元は同じ読み音で「マセキ」といったと思われる。 水田の良く開けた川北地区を馬関田と呼び、大宰府安楽寺領として同寺文書に馬関田と書き、近衛家領田は同家文章に真幸と書いたので各種の字があてられていると 『日向国史』には記してある。

Animals

えびの市で見られる哺乳類


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Birds

えびの市で見られる鳥類


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Plants

えびの市で見られる植物


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Insects

えびの市で見られる昆虫


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