真幸院の歴史
HISTORY OF MASAKI-IN

西暦和暦事項
795年宝暦14年 第50代桓武天皇は太政官符令を発し、全国に倉院を設置する様に布告されました。
823年弘仁14年 2月大宰府も九州諸国に倉院設置を促しました。この倉院設置令に従って郡院や郷院が設置され、 真幸院もこの世代に郷院として設置されたました。
※院とは、農作物を収納する倉庫役所の所在地の名称であるが、農作物を生産する荘園地域を含めて院と呼ぶ様になりました。
1197年建久8年  この年に、作成された図田帳に依ると、真幸院の区域は加久藤、飯野、小林の三地域であって、当時、島津庄の寄郡で 320町となっています。  真幸院の領主が荘園を寄進したから寄郡となりました。
 ところが、真幸地区の吉田郷と馬関田郷(まんがた)の二郷は真幸院の区域外でした。吉田郷は30町で島津庄の 一円庄であって、馬関田郷は五十町で大宰府安楽寺の領地でした。これは馬関田郷の領主が何かの理由で大宰府安楽寺に 荘園を寄進したのでしょう。この様な荘園状態もやがて南北朝の動乱を迎え、中央貴族や大寺院が占有していた荘園にも 動乱の波が押し寄せて来ました。
 日薩隅の三国も南朝と北朝に分かれ、荘園は戦乱に侵され崩潰の一途を辿り始めました。
1334年建武元年  当時、真幸院司は日下部貞房の職権であった。貞房も、諸県郡庄内や南郷地で北条一族の残党が 起こした乱の時、諸県地方の豪族と一緒に、北条の残党に協力し敗れ、勢力も衰えていました。 真幸院を統治することも出来ず吉田合戦が起きたり、他の勢力が主権を獲得しようとする、権力闘争が南北朝動乱 と交錯していました。
 この様な乱世の中で真幸院の収納使と言う職権を持つ北原兼命(兼幸)が、当時日向国の守護職であった畠山直顕に巧妙 な策謀をつくし、更に諸県地方に勢力を持つ肝付兼重の援助を背景にしながら、日下部貞房の衰退を好機に北原兼幸は 真幸院司の職権を獲得したのでした。
1342年康永2年  真幸盆地に於いても、荘園に絡んだ勢力争で吉田合戦が起きてます。それは、飯野の花北氏、加久藤の西郷氏、馬関田の 平河氏等が連合して、吉田郷の坂覚英を攻めて大官を殺し、田畑の作物を刈り取るなどの横暴を極め、この合戦で坂氏一族 は滅落して領地吉田郷も没収されたのでした。
1345年康永4年  院司の職権を掌中に収めた北原兼幸は、真幸院司となって飯野城に着任し、吉田郷、馬関田郷、加久藤郷、飯野郷、 小林郷の5郷を真幸院の領地と定め、ここに北原氏の起りを成し盛衰の歴史を刻むのでした。
※えびの史談会誌16号より引用

真幸院の由来

 真幸院の名が歴史に登場するのは、建久図田帳けんきゅうずでんちょう、1197年(建久8年)に、「真幸院320町、殿下御領、島津庄寄郡、地頭前右兵衛尉忠久」 とあるのが始まりです。
 建久7年(1196年)に源頼朝の庶子しょしである惟宗忠久これむねただひさ(当時18才で後に島津姓となる)が、日向、大隅、薩摩の守護職になりました。 それで以前からの島津庄、地頭職とも兼任する事になり、島津庄本庁のある、今の都城市郡元に赴任しました。 その時に、三州の土地台帳を作り、幕府に差出したのが建久図田帳けんきゅうずでんちょうです。この控えが島津家に残されていました。
 島津庄は、万寿3年(1026年)に始まると云う。前大宰大鑑(令制の三等官)、平季基たいらのすえとも良宗よしむね兄弟が日向諸県郡に下り、 無主の荒野を開拓して、これを関白藤原頼通に献上したとあります。荘園は租税が軽いので、未登録の田畑もすべて開拓地と一緒にされ、 島津庄に編入された様でした。
 日向国の田畑8,000町の内、島津庄は半分の約4,000町です。その他も殆んど有力者の荘園であり、官有地は僅かに25町でした。 三州の田畑は約15,200町で、島津庄はその内、約7,900町を占め、荘園では日本最大のものでした。それで島津庄は三州の代名詞になっていました。
 都城の地は太古は湖であったので、古名を島戸と云い、後に島津となり、奈良時代には島津駅が置かれた。南九州の藤原家の荘園は、 本庁のあった地名の故に、島津庄と名付けられました。京への玄関口は、志布志であったといいます。
 よせこおりとは、租税を島津庄と国とで、半分ずつ取る中間的存在である。守護職とは、軍事徴兵権と、これに伴う警察権を持ち、 地頭職とは、徴税権とこれに伴う警察権を持っていました。
 図田帳に見る真幸院の領域は、飯野、加久藤、小林、高原、高崎、野尻、須木等であった様でした。荘園が崩壊して室町時代になると、 その領域は馬関田、吉田、吉松まで含む様になりました。
 荘園開始より中世末まで560年間は、飯野が政治、経済、軍事の中心地で、文化の花を咲かせた時代でした。
 真幸の語源ですが、小林誌(赤木通円)では、せまき意味といい、地形から名付けられたとあります。 三国名勝図会には、つま霧島権現(高城)の社域に、人民に害をなす魔石があった。これを霧島神が、十握の剣で真に三段に斫(き)り裂いた。 この事が延喜式の真斫駅の語源になったとあります。
 日向国史では語源は説かず、真斫、馬関はともに「マセキ」と発音したものとあります。而し、る事を古音では「サキ」または「サク」と 訓でいいます。それで真斫は、「マツサキ」と発音すべきでした。軍歌の「真先(まつさき)かけて突進し」の例や、加久藤の真崎(まつさき)氏等の 例にあるのが、正しい古音と思います。
 霧島の古名はクシフル岳である。正しくは「し火る岳」といいます。現代訳すれば、噴火の火の降る山と云う意味です。 霧島の噴火によって、真っ二つに斫り裂かれて出来た土地が真斫(まつさき)です。三段に斫り裂いたという事は、真幸盆地、小林盆地、 都城盆地のことのようです。この様な現象を、記紀風に表現すれば次の様になるでしょう。
  イザナギの命、火の神具土ぐつちたもう時に、成りませる神の
  御名は、イカヅチの神(火神)、オオヤマヅミの神(山神)、
  タカオカミの神(竜神)と申さく。云々
具土ぐつちとは輝く土の意味で、噴火山頂より流れ出る溶岩の形容詞といいます。この香具土こそ、古代九州の拝火信仰の神であると推測されます。
 地質学者の説によれば、真幸盆地は、1,000万年前は湖であり、湖水は大淀川に流れていたといいます。150万年前頃に、 栗野岳(し火の岳)が爆発して、新しく亀裂を生じました。これから度々地震があり、湖水は栗野盆地に流れ出し、 横川から国分に流れていたが、後に菱刈へ流れて川内川になったといいます。この様にして真幸湖(加久藤湖とも)は、湖底が現れて盆地を生じました。 今でも吉松の地下に、群発地震のマグマがあるのも、その名残といいます。
 古代郷土人は、噴火を神として恐れました。この噴火の神(霧島神)が岩をり裂いて出来た土地を、真斫(まつさき)といったでしょう。
 奈良時代になると真斫駅が置かれ、駅倉が造られました。この駅倉は、日向国府に納める租税(稲束、麻布等)を入れるもので、真斫院と名付け られました。その後、租税を納める地域までも、真斫院と呼ばれる様になり、やがて荘園が開始されると、夷守院(小林、高原の西半分) 野後院(野尻、須木、高原の東半分、高崎)まで併合して、新たに真幸院という荘園に発展しました。
 真斫駅の所在は、布目瓦ぬのめがわら(奈良期)の出土する、上江の字法光寺附近もしくは、真崎(まつさき)と云う古音と字名を残した灰塚附近だと 思われます。現在では、遺跡調査の結果、灰塚附近が有力です。

※えびの史談会誌8号より引用
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