えびの市歴史民俗資料館

市民講座資料

1560年(北原兼守の死)から1572年(木崎原合戦)までの真幸院の動き

03木崎原合戦までの真幸院の動き

1560年 北原兼守の死 兼守の室麻生殿を馬関田まんがた右衛門に嫁がせる。
1560年 3月 反対派の北原三河守みかわのかみ都於郡とのこおりに呼び、帰途殺害。
1561年10月24日 伊東氏は飯野城の北原兼孝父子を自害させ、反対派を討滅する。(長善寺合戦)
《 真幸院、栗野、横川まですべて伊東領となる。 》
1562年 真幸院への伊東氏進出を阻止したい島津氏、相良氏は相良に亡命していた北原兼親の擁立に動く。
相良氏は伊東領となっている馬関田城を攻め落とす。
1562年 5月10日 北原兼親が島津、相良、北郷の後押しで飯野城に入る。
      6月 3日 横川城の戦い 島津氏は伊東氏に組みする横川城の北原伊勢介を義弘、歳久、新納忠友らが攻め、伊勢介父子は自害し、落城した。
横川城は菱刈重猛にあてがわれたが、まもなく島津に背き島津の手を離れる。
      6月 8日 島津氏は、伊集院忠郎を真幸に在番させる。
      6月21日 白鳥盟約島津、相良、北郷の老臣と北原兼親が白鳥に会し盟約を結ぶ。
      不明 大河平城の戦い 大河平城を伊東勢450の兵が攻めてきたが、大河平勢はよく戦いこれを退けた。
1563年 2月10日 島津貴久、兵を飯野に進め、2月10日小林三山城を攻める。
      6月 相良氏は東左京を大明寺に在番させる。
1564年 5月 2日 今城攻撃 伊東軍千人余りで攻める
大河平隆次(15歳)以下130余人全滅負傷残兵、老幼婦女子等は殺害、または伊東領に連れ去られた。
『物語り大河平史』
1564年11月17日 義弘、飯野城へ  29歳
※『飯野町郷土史』では、義弘は1564年11月、精兵60人を率いて加世田を発し、鹿児島を経て、牧園より白鳥山を越え、飯野城に入ったのが17日とされている。
※『小林市史』島津義弘は1564年(永禄七年)11月17日加世田を発し、「道筋横川城には伊東に応ずる北原伊勢守同新助が居城しているので、険阻けんそな霧島山に道をとり、霧島岑きりしまみね神社の瀬田尾せたお越えをして、武運長久を祈願して真幸院に入った。
1566年10月26日 小林城の戦い 31歳
島津軍は飯野に集結。義久、義弘、歳久軍は三方より攻める。
小林城の守りは固く、須木からの援軍に背後より攻められ、敗退する。
1567年11月 島津貴久は大口城を本拠とする菱刈隆秋を攻める。
義弘も菱刈攻めへ。
1568年 8月 9日 伊東は飯野の田原に出城を築く
義弘は飯野城へ帰り、これに備えた。
伊東氏 6月、飫肥を落とす。
1569年 7月11日 都於郡とのこおり城主 伊東義益、三財さんざい村で急死。
伊東義祐は同月14日、田原陣を撤退。
1571年 6月23日 島津貴久逝去 58歳
11月 肝属きもつき氏、根占ねじめ氏が連合して鹿児島を脅かす。
1572年 5月 4日 木崎原の戦い 義弘36歳
※上記資料は『えびの学』において『故 安藤 正継氏』が講師・資料提供して頂いたものを、正継氏に許可を得て掲載しています。
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