02島津義弘、飯野城入城のいきさつ
伊東氏、北原氏を抱きこむ
①伊東との婚姻関係北原兼親 飯野城へ入城
北原旧臣である白坂下総介が島津貴久に頼んで、北原兼親を第14代にして北原家を再興したいと願い出ました。
島津貴久は、北郷時久・相良義陽にも協力してもらい、北原氏旧領地で本城の飯野城を奪還しました。
1562年5月 北原兼親は飯野城に入りました。
1562年6月21日、伊集院忠郎、肝付兼益、北原兼親、深水右馬之助、北郷忠徳らの武将が白鳥に会して、艱難を共に救援することを盟約しました。※白鳥盟約
※島津歳久・義弘、横川城を攻撃し陥落させる。
※栗野城は白坂下総介を通じて投降しました。
今城の戦い 1564年5月
伊東義祐が大河平城を襲撃しましが、幼弱な大河平隆次が伊東軍を撃退し、その勲功を義弘は賞賛しました。その後、新城を築かせ城兵300人を常駐させ、伊東軍に備えました。
北原兼親は些細なことから家臣の大河平隆次と不仲となり、島津義弘に『飯野城と今城は近いので、今城に敵が侵攻しても直ちに飯野城から兵を出せる。今城に300人の守兵を置く必要がない。』と義弘に進言し、この意見を聞いた義弘も納得し、今城の守備兵を撤収しました。
1564年5月
今城の守備兵撤収の報を聞いた伊東義祐は、好機と判断し今城を攻撃しました。今城では激しく戦いましたが、多勢に無勢なため敗れました。城主大河平隆次、叔父の隆竪をはじめ130余人が全員戦死しました。※大河平隆次 享年15歳
北原兼親、伊集院神殿村へ移される
今城が落とされ、飯野城の北原兼親は孤立状態になりました。更に踊城主・白坂佐渡介、高原城主・白坂下総介らも北原家より相次いで去ったため、北原兼親は領地維持が難しくなりました。
島津貴久は、北原兼親に薩摩・伊集院の神殿村に領地を与え移住させました。これにより、北原氏は完全に島津家の家臣に組み込まれました。
島津貴久は、二男義弘に飯野城を守らせ、伊東氏に備えることにしました。
義弘、飯野城へ入った。
永禄7年(1564年)11月17日に加世田から御供衆六十人を連れ入城。