えびの市歴史民俗資料館

市民講座資料

島津義弘公、飯野城入城から木崎原合戦にいたる経緯

02島津義弘、飯野城入城のいきさつ

飯野城跡
【 飯野城跡 】

伊東氏、北原氏を抱きこむ

①伊東との婚姻関係
 次の領主が伊東から嫁をもらう。
*5代範兼  *8代貴兼  **13代兼守
②伊東氏の北原氏への内政ないせい干渉かんしょう
 北原氏13代の兼守かねもりは、伊東義祐よしすけの二女(麻生)を妻にしており、居城を飯野城から三山城に移しました。
 1560年 北原兼守は若年で亡くなりました。伊東義祐は、その後継として馬関田まんがた城主馬関田右衛門佐うえもんのすけと兼守の未亡人と再婚させ、北原家を継がせました。
*このころ伊東氏は北原領 真幸院、栗野、横川、などを支配領域とした。

北原兼親 飯野城へ入城

 北原旧臣である白坂下総介しもさのすけが島津貴久に頼んで、北原兼親を第14代にして北原家を再興したいと願い出ました。
島津貴久は、北郷ほんごう時久ときひさ相良さがら義陽よしひにも協力してもらい、北原氏旧領地で本城の飯野城を奪還しました。
 1562年5月 北原兼親は飯野城に入りました。
 1562年6月21日、伊集院島津氏忠郎、肝付兼益、北原兼親、深水右相良氏馬之助、北郷忠北郷氏徳らの武将が白鳥に会して、艱難かんなんを共に救援することを盟約しました。※白鳥盟約
島津歳久・義弘、横川城を攻撃し陥落させる。
栗野城は白坂下総介しもさのすけを通じて投降しました。

飯野城跡
【 飯野城跡 物見曲輪より 】
今城跡
【 今城跡 】

今城の戦い 1564年5月

 伊東義祐が大河平城を襲撃しましが、幼弱な大河平隆次が伊東軍を撃退し、その勲功を義弘は賞賛しました。その後、新城を築かせ城兵300人を常駐させ、伊東軍に備えました。
 北原兼親は些細なことから家臣の大河平隆次と不仲となり、島津義弘に『飯野城と今城は近いので、今城に敵が侵攻しても直ちに飯野城から兵を出せる。今城に300人の守兵を置く必要がない。』と義弘に進言し、この意見を聞いた義弘も納得し、今城の守備兵を撤収しました。
 1564年5月  今城の守備兵撤収の報を聞いた伊東義祐は、好機と判断し今城を攻撃しました。今城では激しく戦いましたが、多勢に無勢なため敗れました。城主大河平隆次、叔父の隆竪をはじめ130余人が全員戦死しました。※大河平隆次 享年15歳

北原兼親、伊集院こう殿どの村へ移される

 今城が落とされ、飯野城の北原兼親は孤立状態になりました。更に踊城主・白坂佐渡介、高原城主・白坂下総介らも北原家より相次いで去ったため、北原兼親は領地維持が難しくなりました。
 島津貴久は、北原兼親に薩摩・伊集院の神殿村に領地を与え移住させました。これにより、北原氏は完全に島津家の家臣に組み込まれました。
 島津貴久は、二男義弘に飯野城を守らせ、伊東氏に備えることにしました。

飯野城跡
【 飯野城跡 大手門 】
飯野城跡

義弘、飯野城へ入った。

永禄7年(1564年)11月17日に加世田から御供衆六十人を連れ入城。

※上記資料は『えびの学』において『故 安藤 正継氏』が講師・資料提供して頂いたものを、正継氏に許可を得て掲載しています。
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