01島津義弘の人物像
父島津貴久、島津宗家を継ぐ
義弘の父貴久は、薩摩島津の分家伊作家・相州家の当主、いろは歌で有名な島津忠良の長男として田布施亀ケ城で生まれた。
このころ、島津一門は、一門、分家、国人領主の自立化や宗家の12代、13代当主が早世し、14代当主島津勝久が若年のため宗家は弱体化していた。
そこで、14代勝久は、伊作・相州家の忠良を頼り、1526年(大永6)勝久は忠良の長男貴久を養子に迎え、同年11月27日、元服した貴久に守護職を譲り、忠良にその後見を依頼し、(清水城)自らは出家して伊作に隠居した。
その後、以前から貴久の守護職就任に反対していた薩州家当主島津貴久との抗争や隠居した勝久の守護職復帰などが起こったが、忠良・貴久親子の奮闘で1539年(天文8年)、名実ともに島津宗家の家督相続と守護職復帰を実現した。
島津義弘の生い立ち
島津義弘は、1535年(天文4)7月23日に貴久の次男として、薩摩伊作城(亀丸城)にうまれた。母は入来院重聡の娘。幼名を「忠平」といい、1546年元服(11歳)後、「又四郎」。
1586年に足利将軍義明から「義」を授けられ「義珍」に改め、「義弘」を名乗るのは1588年(天正16)からである(飯野城在城時代は「忠平」)。
義弘は後に、「島津四兄弟」と呼ばれ賞賛される兄義久、弟歳久、家久も伊作亀丸城で生れ、兄弟とともに、仏教に深く帰依していた祖父忠良(日新済、5歳から15歳まで坊津一乗院の末寺海蔵院で教育を受けている)、父貴久の訓育、影響を大きく受けている。
義弘は幼いころから勇敢で活発な少年だったようで、将来を嘱望されて育てられた。少年時代義弘は、兄義久とともに伊作から加世田に趣き、数日を祖父忠良のもとで過ごし、伊作へもどるのが常だったという。(『島津義弘公記』)
祖父忠良は、四兄弟のことを「義久は、三州の総大将たる材、徳自らそのわり」「義弘は、雄武英略をもって傑出」「歳久は、終始の利害を察する智計並びなく」「家久は軍法戦術に妙をえたり」とそれぞれの孫を高く評価している。
義弘は武勇の人であった
祖父忠良から「雄武英略をもって他に傑出す」というほどの猛将であった。武勇のみでなく実直な人柄から、福島正則ら武闘派の武将たちに大いに尊敬された。義弘は愛妻家で、子供想いであった
■「3年も朝鮮陣中で苦労してきたのも、島津の家や子供達のためと思えばこそだ。だが、もし自分が死んでしまったら子供達はどうなるのだろうと思うと涙が止まらない。お前には多くの子どもがいるのだから、私が死んでも子供たちのために強く生きてほしい。そうしてくれることが、1万部のお経を詠んでくれるより嬉しい。」
■「去年の5月3日に着津してから、その方(妻)からの手紙が初めて到来した。こちらからは便りのある時は、詳しい手紙を再々よこしてくれ」
■「さても昨日八日夜半、久保死去候。我ら力落ち、推量あるべく候。この中内々煩わしく候へども、今かように相果てるべき鉢にてはこれなく候つる。覚の外の儀に候。(昨日8日の夜半、久保が死んだ。私の落胆を推量してほしい。最近、少し思ってはいたが、いま、このように早く死ぬほどの様子には見えなかった。まったく思いもしなかつたことだ。)
部下への気配り
●義弘は、主従分け隔てなく、兵卒とも一緒になって囲炉裏で暖をとったりもした。このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役(文禄・慶長の役)では日本軍の凍死者が続出していたが島津軍には一人も出なかったという。
●義弘は、家臣らに子が生まれ、生後30日余りを過ぎると父母ともども館に招き、その子を自分の膝に抱き「子は宝なり」とその誕生を祝った。また、元服した者の初お目見えの際、その父親が手柄のある者であれば「お主は父に似ているので、父におとらない働きをするだろう」といい、父に手柄のない者には「お主の父は運悪く手柄といえるものはなかったが、お主は父に勝る手柄をたてるのだぞ」と一人ひとりに声をかけ励ました。
義弘は「島津家17代当主ではない」という説
義弘を第17代当主とする史料の初出は、幕末に編纂された『島津氏正統系図』と考えられる。これ以降、島津家の系図はこれを基に作られ「義弘=17代当主」という認識が定着していった。また、秀吉の九州征圧後、善久に大隅、義弘に薩摩をそれぞれ蔵入れ地としてあてがわれたことも、義弘が当主であるという認識を補強する材料となった。
しかし、1980年代に入ってから島津家当主の証である「御重物」の研究進み、当主の地位が義久から忠恒に直接ゆずられていることが判明すると義弘の17代当主ではないという学説が広まった。以降、義弘は「当主であった」という説と「当主でなかった」という説が並列するようになっている。