奈良東大寺の大仏は、天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われています。
高さ16.05m・面長3.18m・広さ2.5m・鼻の高さ50cm・中指1.5m、金属製では世界最大の仏像ともいわれています。
この大仏をおさめた大仏殿は、超巨大なものでありました。天平勝宝3年の創建時には、正面87m・側面51m・高さ50mの世界最大の木造建築でした。
この大仏殿は過去2回、兵火に焼かれています。1回目は治承4年(1180年)源平合戦の最中、2回目は戦国時代永禄10年(1567年)です。
それから130年後、元禄・宝永の時期に、公慶上人によって13年を費やして再建されました。
正面は57mに狭められましたが、側面と高さは創建時と同じであり、
依然として世界一の木造建造物でした。
この大仏殿を支える中央部の棟木は『虹梁』といわれ、特に重要なものでありました。大仏のある所に柱は立てられず、
必然的に巨大な、そして頑丈な木を必要としました。
この『虹梁』に使われているのが、白鳥神社境内にあった赤松の巨木2本でした。
現在大仏殿で使われている『虹梁』は、長さ23.4m・元口の直径1.3m・
重さ約22tという超巨大で、頑丈な赤松の木であります。天然に生えている時は、高さが54mあったそうです。時は元禄の時代と言っても、
このような木がざらにあるわけではなく、公慶上人は20年間全国を探し歩いたといいます。
「一日、夢ニ白鳥飛ビ曰ク、日州ノ老松ノ久シク上人ノ需ヲ持ツ有リト」(公慶上人年譜)とのお告げがあったというが、
実際は日向国諸県郡小林在の園田清右衛門から霧島山白鳥神社境内に適材があるむね、薩摩藩を通じて奈良町奉行に知らせがあったといいます。
1本目は、白鳥神社表参道から2間右手に、2本目は神社の奥500mほど入ったところにありました。
切り出しには、倒すのに1本目は杣人90人で4日間、2本目は100人で3日間もかかったといいます。54mの長大な巨木から必要な部分を切り取ったのが、
1本目は長さ13間(23.4m)、差し渡し元口が4尺3寸(1.3m)、末口が3尺3寸7分5厘(1.01m)、重さ6、183貫(23.2t)。
2本目が長さ13間(23.4m)、差し渡し元口が4尺1寸(1.23m)、末口が3尺7部3厘(0.92m)、重さ5、435貫(20.3t)あったといいます。
傷が付かないように両端に鉄の輪が巻かれました。
代金は1本につき20貫目ずつであったようです。
※仕出しについて『大仏殿再建記』には次のように記されています。
一、弐本之木、山出し之義ハ申ノ正月七日ヨリ仕出し仕懸、同五月四日迄、日数百十五日ニ国分新川口迄著木仕候、比間ハ人数十万、牛四千疋ニテ出申候、薩摩藩ヨリ山奉行出ル、 三千石有川吉兵衛、平田茂右衛門、検者鎌田市之助、有田甚右衛門、上原作兵衛、東郷作左衛門、伊地知茂左衛門、原田市兵衛、伊集院茂兵衛、右之通毎日罷出候、
一、白鳥山ヨリ船場大隅之内、国分之新川口迄、海道(街道)十六里半、木出之道ハ谷合まかり所有之、山道ニテ難所道法、凡弐拾三四里程之積リ有之由、
一、新川口ヨリ鹿児嶋迄八里ノ渡海、船六艘ニテ海上引付申候、
霧島山中を出発したのが宝永元年(1704年)1月7日、大仏普請場に到着したのが同年9月5日、まる8ケ月かかっています。 全行程1,000kmのうち、霧島山中から鹿児島湾岸の隼人町新川口いたる山道90kmは最大の難所でした。「白鳥神社」から「尾八重野」に下り、「加久藤」から「吉松」・ 栗野の「牛の瀬」・「横川」・隼人の「鳥越」を経て新川口に5月4日到着するまで、115日を要しています。1日平均800m、途中いくつかの谷、山を越えるスン刻みの運搬でした。 この仕出しには、薩摩藩の山奉行の指揮で、人夫延べ10万人、牛が4,000頭、一日平均860人と34頭だったといいます。
752年 天平勝宝4年 開眼供養
1180年 治承4年 源平合戦の時焼失
1567年 永禄10年 三好・松永の兵火により焼失
1684年 貞享元年 公慶上人大仏修理の勧進を開始
1694年 元禄7年 大仏殿再建開始
1704年 宝永元年 虹梁・霧島山中から9月3日に東大寺に到着
1708年 宝永5年 大仏殿完成
1694年9月、彼(公慶)は将軍綱吉に呼び出され、大仏殿建立のため寄進を戴き、
同時に諸大名からも禄高に応じ寄進するとの思いがけぬ朗報に接しました。
大仏殿再建の総監督は、奈良奉行妻木彦左衛門が受け持つことになりました。
当時巨材が少なかったことや経費の都合から、天平・鎌倉時代の大仏殿の3分の2の大きさに縮小されました。
大仏殿を建てるには、長大な虹梁二本がなければ出来ません。
この松の大木の探索は大変でした。
山口県にも赴きました。
やっと九州霧島の白鳥明神の参道で、大仏殿にふさわしい立派な虹梁二本が見つかりました。
長さ23.6m、重さ45tの大木で、運搬するのは大事業です。
島津藩の援助で200人余の人と、延べ4,000頭の牛の力で鹿児島の川口の浜まで引きだし、志布志の弥五郎さんの尽力で鹿児島湾から千石船の両脇に乗せ、
瀬戸内海をへて大阪湾から淀川をさかのぼりました。
虹梁は紅白に飾られた美しい引き船に引かれ木津へと進み、木津からはコロや木車をつかい笛や太鼓の音頭で奈良まで運ばれました。
大勢の人たちも仏縁で結ばれる喜びで毎日奉仕に駆けつけました。
こうして1705年4月、大仏殿の棟上式が行われました。
その年の6月公慶は江戸に上り、将軍綱吉と諸大名に一ヵ月に及ぶ盛大な棟上式の報告をし、これまでの援助に厚くお礼を述べました。
そして、心労のため江戸滞在中に急に亡くなりました。
36歳から22年間、ひたむきの努力によって国と人を動かし、ついに大仏再興を八分通り成し遂げました。
公慶は翌8月に東大寺五却院に葬られました。
志は弟子の公盛たちに引き継がれ、見事に1708年完成し、翌年、 落慶法要が行われました。
現在の大仏と大仏殿は、その時の姿を引き継いだものです。