北原氏は肝付氏の支族で肝付兼俊の二男・兼綱が救仁郷氏を称して、その孫・兼延が北原氏を号した。
嫡子が居なかったので、娘に安楽兼貞の二男・兼幸を婿取りして、康永4年(1345年)飯野城に入り200年に亘り、真幸院を領した。
初代・兼幸から4代・玄幸までは収納使として真幸・串良地方を往来していたが、記録はほとんど見出せない。
5代範兼から史記録がみられるようになり、高原、吉松、栗野、横川、踊(牧園)まで手中に収め、盛時には兵1万を擁していた。
13代・兼守は永禄3年(1560年)、三ツ山(小林)において病死した。兼守の妻は麻生殿(伊東義祐の次女)だった。
兼守には嫡子がいなかったので、北原氏の一族は相謀って、一族の兼孝(民部少輔)を後嗣にたてようとした。
しかし、義祐は麻生殿を馬関田右衛門佐に再嫁させ、三ツ山に置いた。
後に兼孝(民部少輔)を殺害して、
真幸院を初め、栗野、横川、高原なども一時的には伊東氏の支配となった。
北原氏の家臣で高崎城主・白坂下総介、踊城主・白坂佐渡介は伊東氏に服せず島津氏に属した。
横川には伊東氏に与していた城主・北原伊勢介・新助親子がいたが、永禄5年(1562)島津氏は球磨の相良氏を頼っていた
北原兼の曽孫・兼親を招いて、北原氏を継がせ、飯野城を与えることとし、このことを兼親に伝えて、兵を相良義陽に求めた。
このようなことから、徳満(加久藤)城主・北原八郎左衛門尉なども兼親に応じたので、球磨より兼親は飯野城に入った。
永禄5年(1562)6月、島津氏は北原伊勢介親子のいる横川城を攻略した。横川城の陥落により、
栗野城の宮路某も白坂下総介を頼み島津氏に降ったので、
北原兼親は飯野城を島津氏に進上し、飯野城を固く守ることとなった。
永禄7年(1564)北原兼親の叔父・左兵衛尉は吉松城にいたが、兼親を伊東氏、相良氏と謀って飯野城の襲撃を企てたが、
たまたま事が発覚したため、左衛門尉は出奔した。これによって、守護島津貴久は兼親が孤立して真幸院を保つことは困難と考え、
同年11月、兼親を伊集院神殿に移し、二男・義弘(忠平)に真幸院を与え、伊東氏に備えた。義弘は旗本衆といわれる精兵60人を率いて、
加世田を発ち、鹿児島を経て、牧園より白鳥山を越え、飯野城に入り、加久藤城を築いて、ここに夫人を置き、飯野城を修復して、自らは飯野城に在鎮した。
西暦 | 和暦 | 事項 |
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1345年 | 康永4年 | 北原兼幸が飯野城に入り200年に亘り、真幸院を領した。 |
1560年 | 永禄3年 | 13代・北原兼守は三ツ山(小林)において病死した。 兼守の妻は麻生殿(伊東義祐の次女)だった。 兼守には嫡子がいなかったので、北原氏の一族は相謀って、一族の兼孝(民部少輔)を後嗣にたてようとした。 しかし、義祐は麻生殿を馬関田右衛門佐に再嫁させ、三ツ山に置いた。後に兼孝(民部少輔)を殺害して、 真幸院を初め、栗野、横川、高原なども一時的には伊東氏の支配となった。 |
1562年 | 永禄5年 | 北原兼親は、飯野城を島津氏に進上し、飯野城を固く守ることとなった。 |
1564年 | 永禄7年 | 守護島津貴久は兼親が孤立して真幸院を保つことは困難と考え、兼親を伊集院神殿に移し、 二男・義弘(忠平)に真幸院を与た。 |
西暦 | 和暦 | 領主 | 所領 |
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1335年 | 天正4年 | 北原兼守尉 | 吉田、馬関田、加久藤、飯野、三ツ山(小林)、高原、山田、 志和池、財部、日当山(大半)、踊(牧園)、横川、栗野、吉松 |
本田董親 | 新城(国分)、清水、姫木、曽於郡、霧島 | ||
樺山善久 | 生別府(大隅長浜)、宮内(霧島市) | ||
上井為秋 | 上井(国分) | ||
敷根頼愛 | 敷根(国分) | ||
肝付兼演 | 加治木、辺川、溝辺 | ||
廻久元 | 廻(福山) |