「かぐら」の語源は、広辞苑には「神座(かむくら・かみくら)」が転じたものとする説が一般的である。
神座とは「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味する。神々を神座に招き、巫女・神官等のショーマンが神懸りとなって神の意志を伝えたり、
人々の願望実現の祈願をしたりする、神人一体の宴を催す場である。そこで上演された鎮魂儀礼や歌舞が「神楽」とよばれるようになったのである。
記紀神話ではアメノウズメノミコトが天の岩戸の前で神懸りして舞った舞が神楽の起源と記されている。
中国古代には、王権に付随する儀礼・芸能として神楽に類する芸能があったことが、各種の古記録に記されている。
この中国古代の儀礼は、五行思想・陰陽道・道教などと習合しながらアジア各地に分布し、日本へも伝わった。
これが「宮廷に付随する儀礼」としての神楽であり、「国造り」の物語を語り続けた神楽であろう。
一方、宮崎の神楽に残る田植え舞や田楽に類似する「田の神の祭り」や、宮崎の山間部に今も伝承される狩猟儀礼「鹿倉舞」等も
神楽の起源の一つに加えることができる。神楽は、宮中で行われる「御神楽」と民間に伝承される「里神楽」に分類されるが、
「王権=宮廷」に付随する儀礼としての神楽を前者、「民間の芸能・伝承としての神楽」を後者と分類することもできる。「神楽」は、
この二つの文脈に神話・仏教・修験道等の要素・土地神の物語等が絶妙の形で混交しながら伝承されてきたのである。
記紀神話における「神楽」の記述は、天照大神の岩戸隠れを主題とした「岩戸開き」、 素戔嗚命の出雲の国での活躍を 主題として「大蛇退治」の二例が突出する。「岩戸開き」では、天照大神や 手力雄命、天鈿女命、 天太玉命、 天児屋根命等々の 諸神(すなわち大和王権樹立の英雄たち)が活躍する。ここでは天鈿女命が岩戸の前で半裸の舞を舞い、 天照大神を岩戸から導き出す役割を果たし、 それによって「神楽の祖となった」と記される。 「大蛇退治」は大蛇の生贄に捧げられようとしていた出雲の国の先住神の姫神を 素戔嗚命が救出する物語で、 これは出雲地方の製鉄拠点を大和王権が制圧した物語を背景とする。これに天孫降臨の段の「猿田彦」が加わる。 猿田彦は、天孫・瓊瓊杵尊一行との出会いと天孫一行を 筑紫の日向の高千穂の国へと案内した故事にちなみ、 神楽でも「道行き」「先導神」高千穂神楽の「彦舞」などとして演じられる。いずれも大和王権樹立すなわち「日本という国家創生」の物語である。
米良山系の神楽は、南北朝時代、北朝・幕府軍との戦いに敗れた南朝の皇子・
懐良親王
(後醍醐天皇の十六皇子)とそれを支えた肥後の豪族・菊池一族とともに流入したと伝えられる。
肥後・菊池の城や懐良親王
軍の陣中で舞われた神楽は、さらに米良の山深く伝えられて現在に至ったのである。
懐良親王
伝承を骨格とし「宿神」と呼ばれる土地神の祭りと並立しながら伝承される。
南北朝時代、肥後・菊池氏と結んで一時九州を制圧した南朝の皇子・
懐良親王
は、北朝・足利幕府の連合軍に敗れ、
菊池の残党とともに米良に入山するのである。落ち延びた親王の一行とともに流入した「都ぶり」の神楽が、米良神楽の源流と伝えられる。
米良の深い山と森に住む人々は、敗残の皇子を「神」として迎え、文化・芸能を受容した。
宮崎の神楽は、「大和王権=日本と云う国家」を築いた天孫族が奉祀する「渡来の神」と、
先住民族が祀る「土地神」との激突と融合の物語である。
「三宝荒神」とは、古代インドの土着神である夜叉神の信仰が仏教とともに渡来し、古来の山岳信仰、星宿信仰、
神道、密教、修験道などの要素が混交し、
日本独自の発展を遂げた神である。五行の中央神あるいは星宿神としての宿神、
荒魂を宿す土地神、
竃神として信仰される火の神などの性格を合わせ持つ。
大きく見開いた眼。彫が深く、皺の多い造型。えびの市大戸諏訪神社の神舞面「鬼神」、
菅原神社の神舞面「四方鬼神」など。
霧島神宮の「荒神面」には海老原源左衛門作・明和3年(1766年)の銘があり、製作年代と当時の作風が確認できる。源左衛門の銘の仮面は、
菱刈の前目南方神社の二面(延享二年・1745年)と大口市鉄道ふれあいセンターに寄託されている大口市神職会所蔵の二面である。
この大口の面は大戸諏訪神社の面とよく似ている。
西川北菅原神社の「阿吽」一対の「守護面」については、室町時代「文明十一年(1479年)十二月右衛門太夫作」の墨書があります。
この面は霧島地方の仮面文化を紐解く手がかりの有力な資料と云われています。
鹿児島県霧島市横川町安良神社に伝わる「王面」は、室松時代「貞和五年(1349年)」の墨書が確認されています。
神社の守り神として信仰される「守護面」です。神社の創建と共に奉納され、御神体として神社本殿に秘蔵されたり、
本殿の御神体を守護する位置に掛けられたりしています。大きな特徴は「眼の穴が開いていない」ことです。
すなわち、「見る」という機能を有しておらず、本殿両脇の柱や鴨居などに「掛け面」として用いられることを基本とします。
この「王面・守護面・掛け面」などと分類される仮面群は、大型のものもあり、南九州の仮面群の中でももっとも古い時代のもが確認されています。
鎌倉から室町頃にかけて、この地方に神社が次々と創建されていった時代相を反映するものといえます。
西川北菅原神社の「阿吽一対の守護面」は守護面として伝えられているとすれば、神格・用途を持って用いられたものと考えるべきです。
但し、仮面の様式からすると能面の「飛出」をほぼ完璧にふまえたものであるといえます。能面の影響を受けて製作された「飛出面」が何らかの
由緒・経路を経てこの地に伝わり、伝来されたものでしょ。この様な伝来の例は、高貴な身分の一族とともに流入した例、土地の豪族・集落の危機などに際して
救世主的な役割をしたと伝えられる例、神社創建伝承、修験の山伏が伝えたという伝承などがみられます。そのような場合、多くは祭の行列を先導する「先祓い面」
鉾面」などの用途・性格が重なります。
「鉾面」とは神社の両脇や本殿を守護し、祭りの時には鉾に取り付けられて行列を先導します。南九州に多く分布しまが、英彦山山系や大宰府周辺など、
北部九州にも見られます。西川北菅原神社の白の一対の「鉾面」は近年まで使われていたようです。
「飛出」様式の仮面として、えびの市内の神社には大戸諏訪神社の「鬼神・天児屋根命」、加久藤神社の「鬼神」の二面、西川北菅原神社の「鬼神」面があります。
大戸諏訪神社の神楽面には、黒の女面で「天鈿女命」の面があります。霧島山系北麓の高原町狭野神社に大戸諏訪神社の女面と同様式の面が伝わっています。
狭野神社の神楽面は「高幣」と呼ばれています。「高幣)」は御幣を肩にかつぎ、
扇でその御幣の柄の部分を軽く打ちながら巡る呪術的な舞です。
また同じく大戸諏訪神社の白い女面には「陰女(かげじょ)」の記銘があり、これは先の黒の女面と一対を為しています。
神楽舞での「氏」は女面の舞で「氏・宇治・志目・陰女」が同一の様式の女面で「孕(はら)み女」の所作があります。すなわち豊穣の神です。
この大戸諏訪神社の「陰女」で注目されるのは、頬にあざやかな笑窪(えくぼ)があることです。民間仮面研究の先達、故・後藤淑氏の研究によりますと、
笑窪のある女面は、初期の能面と神楽面にしか見られないということです。この大戸諏訪神社の「陰女面」は女面の古形を示すものであることがわかります。
また狭野神社の黒い女面の「高幣(たかび)」にも明らかな笑窪があります。
また、加久藤神社の女面は「氏・陰女・志目」の役割で使われたものと思われます。
西川北菅原神社の女面「天鈿女命」、金丸諏訪神社の白い女面は「氏・陰女・志目」の役割で使われたものと思われます。
これらの神社の女面は「黒」と「白」の一対があり、一方が呪術的な舞を舞い、もう一方が女性神としての田の神=豊穣神を演じるものであることがわかります。
いずれも「天鈿女命」の神格・名称と重複・混交しています
信仰面 | 王面 | 行道面 | 守護面 |
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芸能仮面 | 神舞面 | 寄進面 | 田の神 (悪霊祓い) | 臣(神)下面 (五穀豊穣) | 翁面 (道化) | 女面 (豊穣・生産) | 男面 (豊穣・生産) | その他 |
南九州の「田の神」面については、向山勝貞氏が「田の神面の系譜」(昭和五十年、隼人文化創刊号)で、「うそぶき型」と「尉面型」
の二つに大別しています。口や鼻が歪み、破壊された容貌の面は「うそぶき型」、怖い表情は「尉面型」といわれています。
「田の神」舞の滑稽な所作から、「田の神」面は親しみのある温かな表情の面が多いと思われていますが、実際は、怖い表情の老人面や悲しそうな「田の神」面が多いといわれています。
えびの市内の「田の神」面は「うそぶき型」の面が多いようです。
「田の神舞」の採り物は、「メシゲ」「スリコギ」等です。
神楽で舞われる「臣下舞」は「田の神舞」と類似しているという説があります。「臣下舞」の面も「田の神舞」面と同じように顔、口や鼻が歪んでいます。
臣(神)下舞の採り物は「杵」です。
西川北菅原神社・水流菅原神社・加久藤神社は「臣下舞」であり、大戸諏訪神社は「神下舞」となっています。これらの神社では臣(神)下大明神で神様になっています。
そもそも臣(神)下とは神様を喜ばす・祝う(賀す)舞という意味ではないかといわれています。
王の名の付く仏像(明王・仁王・四天王)は、如来など本尊となる仏と違って、本尊を守護する役や真言の効力を具体的に表現したりする役を担っている仏です。
「王面」は神面扱いをされていますが、神殿の柱に掛けられたり、祭神の前に置かれたり、神殿の鴨居に並べて置かれたりして、祭神を守るような位置に置かれています。
また阿吽一対に作るのが原則で、神社や寺院の前に安置されている狛犬や仁王像と性格が似ているといわれています。また若宮神社に奉納されているのが多いようです。
この「王面」は南九州に多く、特に霧島山麓の神社に多いといわれています。「王面」は神楽面とは違い、舞うための物でないことより目・鼻に穴の無いものが多くあります。
「王面」には「行道面」と「守護面」があります。西川北菅原神社の祭礼では、神輿が川内川の川岸まで行く「浜下り」の際、
神幸行列の先頭に鉾に付けた「行道面」が立ったと云われています。現在その「行道面」は残されています。また今西の香取神社の打植祭の時にも、
「行道面」が天宮神社への行列で同行しています。
「鬼神面」は多くの舞で使われています。悪霊払いがその目的であるようです。舞としては、「神武舞」、「金山舞」、「四方荒神舞の東・西・南・北・中央」、 「龍蔵舞」、「鉾舞」、「手力舞」、「将軍舞」、「天児屋根命舞」「葉山舞・端山津三舞」などその外の舞で使用されていたようです。 現在えびの市においては西川北菅原神社の「鉾舞」のみで使用されています。
所在地 | えびの市大字西川北一二四四番地 |
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祭 神 | 菅原道真 |
由 緒 | 天満大聖威徳天神宮「威徳天神」とも呼ばれていました。神社の
創建については、万治元年(1658年)火災により、古来の由緒
等全て焼失しましたので、詳しくは分かっていません。
『三国名勝図會』(天保十四年・1843年)によりますと、 「天満大聖威徳天神宮、・・・、闔邑の総鎮守なり、昔時道正某なるもの京師より勧請せしむぞ、 飯野邑の市坊、道正三左衛門は、 其子孫といひ、家に笈を蔵む、是を護り下れる時、 神體を安せし ものなりとて祭祀の日、今に其笈を携へ來りて祀事に與る、・・・昔しは其所に濱下りの式もありしとかや、 傳云、當社火災に罹り、古來の由緒記等焼失し、万治の年再興す、社司黒木主税、座主威徳院」と書かれています。 現在の本殿については棟札が残されていて、寛文五年(1665年)に再建され現在に至っています。 県内では三番目に古くえびの市の有形文化財に指定されています。 |
神舞番付
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菅原神社神舞書
一 地割舞 一 金山舞 一 氏舞 一 御笠舞 一 尊舞 一 四方荒神 一 神楽 一 住吉大明神 一 鉾舞 一 花舞 一 独剱 一 沖江 一 御酒舞 一 ホサ舞 一 長刀舞 一 田之神舞 一 龍蔵舞
宝暦二年の資料より
一 (落丁あり) 一 臣下舞 一 正道独剱舞 一 半蔵主舞 一 夜中祝詞 一 御香舞 一 天児屋根尊 一 太王尊 一 天鈿女尊 一 陰陽 一 神武舞 一 手力 一 戸隠 一 太神神楽 一 花舞 一 剱ノ舞 一 火神舞 一 将軍舞 |
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所在地 | えびの市大字水流五七四番地 |
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祭 神 | 菅原道真、大山津見神 |
由 緒 | 弘安4年(1281年)五月に蒙古の大軍が押寄せた弘安の役で活躍した河野 天正十年 (1582年)島津義久が和歌十首を奉納しています。 慶長十九年(1614年)島津義弘が天満神社に神領20石を寄進しています。 元禄十三年(1700年)に火災で社殿を焼失し、その3年後社殿が再建されました。 しかし昭和に入り昭和26年(1951)に火災で全焼し、学校の古校舎を移築し再建されました。現在の神社は平成6年に新築されたものです。 |
所在地 | えびの市大字栗下九四三番地 |
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祭 神 | 建御雷之男神 |
由 緒 | 白鳳7年(667年)藤原鎌足(大織冠 明治10年(1877年)西南の役で社殿と宝物一切を焼失し、同14年(1881年)7月に再建されました。 現在の社殿は昭和10年(1935年)3月に熊本市藤崎八幡宮の拝殿を移築し現在に至って います。 『三国名勝図會』によりますと初代藩主家久(義弘の三男)の産土神 |
所在地 | えびの市大字大明司 |
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祭 神 | 建御雷男神 |
由 緒 | 『三国名勝図會』では大戸諏方神社となっています。『木脇家文書』「真幸院記」では
諏訪大明神とあり建立の年間は知らずと成っています。
これらの文書では、天正4年(1576年)に義弘の二男家久が加久藤城(新城)おいて誕生したことにより、
大戸諏訪神社(諏訪大明神)を産神 薩摩藩にはこの外にも多くの諏訪神社が建立されています。諏訪大社は長野県に鎮座する神社であります。 鎌倉時代に鎌倉幕府は諏訪大社の祭礼の奉仕や社殿の修造を御家人に義務付け、信濃国に所領を持つ全ての 地頭にその任務を順番に宛がいました。島津氏も信濃国内の太田荘という所領を有していましたので、この 任務に伴い諏訪神社と機縁ができ、多くの諏訪神社が地元に勧請されたのではないかといわれています。 |
所在地 | えびの市大字原田字八幡岡添 |
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祭 神 | 諏訪大明神 |
由 緒 | 『三国名勝図會』に「杉水流村にあり、永禄年中(1558年~1570年)、松齢公(義弘)當邑 当初杉水流金丸に鎮座していましたが、明治20年代(1887年~)ごろに杉水流鞍掛に遷座。 その後昭和36年(1961年)に移転しました。 |
所在地 | えびの市大字西郷一二一七番地 |
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祭 神 | 大年神 |
由 緒 | 承応三年(1654)に創立と伝えられています。初め年神社でありましたが、 明治六年(1873)に御年神社に改称しています。 |