島津義弘公

戦国時代の武将で勇猛果敢でしられ、えびのに26年間居城していた。
尚古集成館所蔵
【 尚古集成館所蔵 義弘公像 】

島津義弘公とは

 島津義弘は戦国の中期1535年(天文4年)年7月23日薩摩国伊作城で、父島津貴久、 母入来院重聰しげふさの娘(法名雪窓院)の二男として生まれました。義弘の兄弟は、長男義久・三男歳久・ 四男家久からなる四兄弟です。義弘はえびの市とも縁が深く、1564年(文禄7)年飯野城に移ってから、 1590年(天正18)年栗野に移る迄の26年間えびのに居城していました。
 義弘の逸話としては様々あります。朝鮮の役( 慶長の役)では相手国から『石曼子シマヅ』と呼ばれ恐れられ、 又、 関ヶ原の戦いでは、 『島津の退き口』 と言われる敵中突破を敢行し、圧倒的不利な状況から生還、 戦国薩摩の猛将として知られています。このように、武人として知られている義弘ではありますが、 敵に対しても情け深く、朝鮮の役の後には敵味方将兵の供養塔を高野山に建設しています。 (他にも、木崎原合戦・耳川合戦でも供養塔を建設しています)
 武人として知られる一方、茶の湯・易学・漢学などを嗜んだ文化人でもありました。 慶長の役から帰還する際に朝鮮より陶工職人四十余人を連れ帰って磁器の制作にあたらせ、 この地の陶磁器(薩摩焼)文化の発展にも大きな影響を与えました。
 義弘は主従分け隔てなく、兵卒と一緒になって囲炉裏で暖をとったりもしていました。 このような兵卒への気配りもあってか、朝鮮の役では日本軍の凍死者が続出していましたが、 島津軍には一人も出ませんでした。又、三ツ山城を攻めたときに重創を負いその湯治場とうじばとして 吉田温泉(えびの市)を利用して以来、島津家の湯治場として度々利用しています。 この湯治場も、自身のみならず家臣達にも利用させています。
 このように家臣を大切にしていたので多くの家臣から慕われ、死後には殉死禁止令下であったにも関わらず 13名の殉死者を出すに至りました。
 義弘の人となりが伺えるのが、奥さんへ送った書状(手紙)の数々です。子供を心配し、奥さんを気遣う書状(手紙)が残されています。

写真提供:上谷川 則夫氏

慶長の役(オニ石曼子シマヅ

 明との交渉が決裂し、慶長二年二月、秀吉は朝鮮南部四道を実力で奪うことを目的に、再び14万の軍を朝鮮に派兵し、 慶尚道けいしょうどうの沿岸に城郭(倭城)を普請させ、これを日本軍の拠点としました。
 八月、全羅道ぜんらどうの要衝の南原城を攻撃し陥落させた戦いに、島津義弘も参加しました。
 慶長三年十月、義弘が守る慶尚道けいしょうどう泗川しせん新城に、 明提督とう一元いちげんの率いる明・朝鮮の大軍二十万が攻め寄せたが、敵三万八千以上を討ち取る大勝利を得ました。 これ以後、島津氏は「石曼子シマヅ」と恐れられました。






写真提供:上谷川 則夫氏

関ヶ原の戦い(島津の退き口)

 慶長五年(1600年)に美濃 関ヶ原で起こった『天下分け目』の戦いです。 わずかばかりの手勢を連れて京都にいた島津義弘は、当初東軍の伏見城への入場を拒まれ、 この混乱の中で西軍に身を投じることになりました。義弘は以前から風雲急を告げる政治状況から、 国元へしきりに軍勢上京の督促を送っていますが、伊集院幸侃こうかん殺害に端を発した 庄内の乱が勃発しており、 その処理に島津義久や家久は追われていました。(三月三十日に鎮圧)
 西軍に身を置いた義弘は、伏見城攻撃や美濃を転戦し、九月十五日に関ヶ原の小池村に布陣しました。 島津隊は合戦が開始されても動かず、三成の再三の要請も無視して最後まで推移を見守もり、 西軍内の裏切りにより東軍の勝利が確定すると、義弘は島津隊全軍を一丸にして勇猛果敢に敵中を突破し逃走を開始しました。 家康精鋭の松平忠吉や井伊直正は執拗に追撃してきましたが、阿多長寿院ちょうじゅいん盛淳もりあつや甥の島津豊久 (佐土原城主)らの犠牲により、義弘一行はかろうじて虎口を脱しました。 この窮地の脱出劇は後世「島津の退き口」と語り継がれることとなりました。

島津義弘略年表

西暦和暦月日事項
1553年天文4年7月23日薩摩国伊作城に生まれる。
1554年天文23年9月17日蒲生氏を攻撃し、義弘は白銀坂に着陣する。 手勢を二手に分け、一手は脇本に伏せ、一手は岩剣城下を焼き、城兵を撃破し初陣を勝利する。
10月2日大隅国の岩剣城陥落。
10月19日飫肥の領主島津忠親の養子となり、飫肥に至って三年在番する。 飫肥城主の弟北郷左馬頭忠孝の娘を娶る。その後長女御屋地が誕生する。
1560年永禄3年3月19日島津忠親(豊州島津家)の養子になり飫肥に3年在番する。
1564年永禄7年11月17日父貴久の命により、精兵六十人を率い、加世田より鹿児島を経て 牧園より白鳥山を越え、飯野城に入る。夫人は加久藤城に居城する。
1566年永禄9年10月26日島津義久は将と成り、義弘・歳久を従え、三山に侵攻し小林城を攻める。
激戦となり死傷者も出、義弘自身も負傷し、飯野へ退却する。
1567年永禄10年11月24日島津貴久は飯野城にいて、馬越城を攻める。義弘は飯野・加久藤・馬関田
・吉田の兵を率い布陣する。相良勢・大口の菱刈兵の救援を撃退し、馬越城を攻略する。
1569年永禄12年この年、義弘の長男鶴寿丸、加久藤城で誕生する。
1572年元亀3年5月4日 伊東勢は先ず加久藤城を攻めるが、攻めきらず木崎原に撤退する。 ここ木崎原に義弘率いる百三十余人を中心に伊東勢と奮戦する。 伊東勢は大将伊東新次郎はじめ各将兵五百余人が戦死し、小林を目指して敗走する。 その後戦いの場所に敵味方の戦没者を弔うために六地蔵塔を建てる。<木崎原の戦い>
1573年天正元年この年、義弘の二男久保が加久藤城で誕生する。
1576年天正4年この年、義弘の三男忠恒が加久藤城で誕生する。
1576年天正4年8月18日義弘は飯野・加久藤・馬関田・吉田・吉松の各兵を率い、 太守義久・歳久・家久なども兵を率い布陣し、高原城に迫る。城主伊東勘解由は防戦まさに 力尽き城兵百七十余人と共に野尻に撤退する。この戦に北原兼親も従軍する。
8月23日高原城陥落する。翌日、伊東義祐、三ツ山・須木両城を放棄する。 これにより高原・高崎・三ツ山・内ノ木場・岩牟礼・須木・須師原・奈崎の八つの城が ことごとく島津の領する所となる。
11月22日義弘の嫡子鶴寿丸病気により亡くなる。涼山幻生大禅定門。
この長子鶴寿丸を供養するため「亀城山幻生寺」を建立する。
1578年天正6年11月11日島津義久は根白坂に本陣を構え、義弘は簗瀬口に、 伊集院忠棟は折瀬口に陣をしき、大友勢に対峙する。 (耳川の戦い
11月12日高城に大友勢を大破し、追撃して耳川に至る。 (耳川の戦い
1580年天正8年この年、義弘の四男万千代丸が加久藤城で誕生する。
1582年天正10年この年、義弘の五男忠清が加久藤城で誕生する。
1584年天正12年この年、義弘の次女御下が加久藤城で誕生する。
1587年天正15年4月6日豊臣秀長、宮部継潤・小寺官兵衛を前鋒として、根白坂に陣し、 新納院高城を攻囲する。 (根城坂の戦い
4月17日義弘はじめ島津勢は根白坂において、豊臣秀長率いる宮部継潤・黒田孝高の軍に敗れる。 (根城坂の戦い
1588年天正16年2月23日四男万千代丸、秀吉の人質として大阪に向かう途中堺で病死。
1590年天正18年6月26日飯野より栗野に移る。
1592年天正20年2月27日久保とともに栗野を出発し朝鮮出兵の途に就く。 (文禄の役
1593年文禄3年9月8日二男久保、巨済島で病死する。
10月30日忠恒、巨済島に到着し、義弘と会す。
1595年文禄4年7月4日五男忠清、栗野において病死。
8月28日朝鮮出兵より栗野に帰る。
1597年慶長2年3月8日再び朝鮮に出兵する。 (慶長の役
1599年慶長4年この年、剃髪して惟新を号する。
1600年慶長5年9月15日 関ヶ原の戦い
10月3日関ヶ原の戦いの後、堺を出船し、日向細島を経て帖佐に帰る。その後、桜島に蟄居する。
1602年慶長5年8月10日義弘は義久に異心無きを誓う。
1606年慶長11年帖佐より平松に移る
1607年慶長12年平松より加治木に移る。
1619年元和5年7月21日加治木で死去する。享年八十五歳。法号松齢自貞庵主妙円殿。
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